台風、並びに
外せない所用があり、台風による断水が続く中、数日ほど帰省した。
もっとも大きい市だから、何ともないところ、断水だけのところ、もう住めなくなってしまったところ、様々あって、そしてそれぞれが最大限の助け合いができているかと言われれば疑問は残るけれど、なんとかしようと思っている人たちもたくさんいる。マルトやセブンの営業だとか、温泉の無料開放だとか、たいしたものじゃないか。
私の実家のあるところは浸水などはしておらず断水のみで、飲み水さえもらってくれば残りは井戸水で何とかできているから気楽なものだった。
そこら中に温泉があって、スーパーは他店舗との連携をとってお弁当をたくさん作っていて、“ちょっとした非日常”くらいで済んでいた。
平窪が大変なことになっていることは十分理解していて、でも何かしてあげられるような余裕がないことも、何をすれば良いかわからないのも確かだった。
せめて、ご冥福をお祈りするとともに、溢れんばかりのエールを。
ちょっとした思い出話をひとつ。
実家のあるところは市の北の方で、震災の時も随分と長いこと断水していた。5キロ東に進めば津波に街が飲み込まれ、30キロ北に行くと原子炉が爆発していた。けれど私の家の周りは目で見る限り何ともない。家屋も倒壊していないし、道路も走れて、みんな生きていた。
別に直接の被害者ではないから大きな声では何も言えない。警報の音もへっちゃらだし、地震の震度を当てるのが得意で、津波のPTSDも持ってない。もとが悲観的になるタイプでないから水が止まったってわりに楽しく過ごせる。
今回がどうだというわけではなく、震災の時は本当に絶望的だったのだ。私のような立場であっても。家が北のほうにあって、原発に近かったからより一層そう感じたのかもしれない。でも市の全体的な雰囲気として、もう無理なんじゃないかな、という感じだった。なにより物資が届けられなかった。簡単に言うと、他の地域から見捨てられざるを得ない状況だった。みんなどこかに避難して、それにつられるように避難をした。もう戻って来られないかもしれないと思いながら。
みんなが色んなものを恨んでいた。なんというか、これ以上最悪なことってないよね、という感じだった。こうならなくてよかったじゃん、という前向きな言葉が浮かばなかった。考えうる最悪な状況すぎて。
今回、断水が初めてではないのに、私は給水車とか自衛隊とかを初めて見たのだ。冗談抜きで。魚沼市だとか高崎市だとかの給水車が忙しくしているのを初めて見たのだ。
楢葉の温泉にお世話になるなんて思ってもみなかった。相双地区なんて無くなれと思ってたぐらいだった。
時が経てば色んな物事も移り変わっていく。
あの時小学生だった私がはたちになって思うのは、あんなに最悪な状況ってないよね、ということで。
せめて声援だけでも送ろうというのは、見捨てられていたことが何よりも辛かったからであって。
特に何か強いメッセージがあるわけではないけれど、今頑張っている全ての人に伝えたいのは、応援しているひとが、支えたいと思っているひとがきちんといるということ。今、目の前で起こっていることが全てだということ。恨むべきことといえば、浄水場の電源を下の方に設置した設計士くらいだということ。
安心したまえ、浄水場の設計は私がし直して市議会に提出しておくから。